なんで生きる?

なぜ私は今ここにいるの?

なぜ宇宙は生まれたの?

いつか消えていくのに命はどうして生まれるの?

消えていくのが怖いと思うのはこんなに苦しいのに怖いって気持ちはなんでつきまとうの?

個々の命に意味はないとして、個々であることにこれだけ明確な意識を持ってしまった生物としての構造は失敗だったんじゃないだろうか。

 

それは個々ではなく全体の発展の為だからって理屈があるね。

全体の発展の為にも、個々の意識が明確な方が各々欲が出るから都合が良かったのかな。

だとしたら苦しみじゃない?それって。

 

全体のために個々は苦しむことを強いられてるんじゃない?

死ぬのが嫌なのって人間だけじゃないよね。

殆どの動物ってそうだよね。

それなのに殆どある。植物にあるかは知らないけど。

 

なんで存在し続けるのが勝ちなんだろう?

いつか個としては消えゆくのだから苦しいことが確実なこの仕組み。

全体というものを構成する個が苦しくなるこの仕組みはなぜあるの?

 

存在の喜び、滅びの恐怖および苦しみ。

 

もう脳に、体に書き込まれた仕組みだから私はそれを無かったことには出来ない。疑問に思いつつも、それはもう絶対無かったことにはできない。

だからその滅びの瞬間まで度々苦しむのだろうけどそもそもこの仕組みは何?

 

種が発展することが良いことだとして、

そもそもそれが良いっていうのはどうして?

種という全体を見れば生存競争という仕組みが云々かんぬんて言われそうだけど、そもそもなんで生存競争が必要なわけ?

存在することが勝ちなのは何故?

なんで私たちはそう思い続けるの?

そもそも種ってもの自体が地球とか宇宙とかもっと大きなものから見れば独自発展してる個扱いなのでは?

生物と無生物を同じものとして扱うのはおかしいか……。

存在した者勝ちなのはなんで?

もしかしたら逆?苦しいのに存在してるから、存在すると言うことを、価値のあるものとして扱うことにして、苦しみを和らげようとしてるの?

もしかして私たちは皆苦しいんじゃないのか?

 

でも喜びもある……

人生ってなんだ?命って何?

 

喜びがあるから滅びが苦しいの?

それとも滅んでいくのが苦しいから存在する間は喜びで目を背けるの?

 

2つ目は違うか。

そもそもの前者が、喜びというもの自体が存在することが勝ちという概念の裏付けか……。

こんなに苦しいのに、喜びのために種の発展、存在の肯定感はプログラムされてるのか?

 

喜びは、苦しみより優先されるってこと?

苦しくてもなんでも、それでも喜びなさいってこと?

 

いやでもその喜びって本能に基づくけど、喜びを感じるように作られてるってことだよね?

喜びを感じるようになってるのはなぜ?

そもそもがそれを感じるようになってるってことが全体の発展に繋がるからじゃないの?

 

やっぱり前提として存在の肯定がある。

あぁでも本能が嬉しいならいいじゃん、喜べばいいじゃんて言ってる気がする。なんなんだろこれ

 

 

 

この世界は皆生きてる

でも皆死んでいく。

わたしもあなたも、隣にいるだれかも、私の大好きな人も、あなたの大好きな人も。

 みんな顔の形、体型、性格、生き様、何一つとっても同じものはないのに、平等に与えられた義務、そして権利。

 

それが死。

 

私はもうずっと死が怖い。

でも本当は生きてることもずっと怖い

言語化

文章を書くことは好きだ。

自分の中で形になっていなかったぼんやりとしか存在しなかったものが目に見える言葉になった瞬間こう……小さく、ハッとする。

自分の中の感情、根源?思想?なんて大したものは入ってないと思うんだけど、今まで脳内で曖昧なままだったモノたちが、とってもとっても細かい一つ一つの事象(つまりその瞬間自分が文章にした箇所)に対して白黒はっきりつく気がするのだ。

間違ってるのかもしれないが、高校時代のとき現代文の先生が話してくれた構造主義の話に似てる気がする。

ソシュールさん?だったっけ。

言葉ができて初めて存在しなかったものがうまれるみたいな……。

 

海外では虹は7色じゃなくて3色だったりもう少し分類が細かかったりするらしいけど、

その区別する色に例えば「紫」と名付けることで紫という概念を認識できるようになる……みたいなやつがあった気がした。

色が何色と捉えるかはその色に名付け、言語化して区別してるから……

そこに存在はするけど、言語化して生まれたみたいな……。

あれ、ソシュールは「そこに存在はするけど」の部分すら否定してたっけ?あとで検索して確認できるかな。

 

あと脳科学の茂木先生が言ってたクオリア。これは言語化しなくても存在はすると思うんだけど言語化して初めて生まれるクオリアもあると思う。

そのクオリアって言うのがソシュールが言おうとしてた「言語化して初めて存在する」ってことなんじゃないかなってずーっと思ってるんだけどどうなんだろう。

 

そもそも大学すら行ってないし、高校の課題で新書読んだ程度の人間の考察に整合性もないのかもしれないけど、正しいことを探すというのは楽しいものだ

書き始める理由

Twitter的に自分の考えをなんとなたくただ呟きたくなった。

ただ自分が使うとTwitterはコミュニケーションがメインになってしまう(というかコミュニケーションを求めてしまう)。

あと長文が書きたい。

文章構成力が低いから普段から文章を書く習慣が付けたいという意図もある。

 

iPhoneのメモに3年くらい独り言を書いてたが、ブログであれば、もしかしたら、誰かが読むかもしれないという「もしかしたら」の部分に惹かれた。

 

コミュニケーションがメインになってしまい遠ざけたTwitterの話と矛盾してると自分でも思うのだけど…。

 

人目をはばからず思ったことを書きたいと思った。その時にTwitterみたいなSNSは横の繋がりが枷になる気がする。媚を売るではないけど……迎合するような、本音じゃないこと書き始めたりしちゃう。

このブログも続けていけば遅かれ早かれそうなるかもしれないけど、つとめて本音で書きたいなと思う。

 

自己表現、自己顕示欲、それに伴う面倒事(人との繋がりをこう書くのは暴論だとも思うが)を回避したいという倦怠感。それらが動機。

 

誰かが見てくれるかもしれないという決して高くはない可能性が丁度いい気がした。

うまく言えないんだけど、沈黙を肯定と捉えて根拠なく前向きになれる気がしたからだ。

 

恐らく誰も見ない。でも誰か見るかもしれない。見てたとしても私は思ったことを書く。これはとても心地よい。

人を傷つけたいとは思わないけど「傷つけるかも?」のラインは本音の中で書いていくつもりだ。

 

………………と、ここまでの文章を読み返してみると自己中心的にも程がある文章だと思う。けど本音オブ本音。

てかなんでこんなカッコつけた文体なんだ。本音だからフランクでもいいんじゃないか?まあいいか。私の日記である。好きにする。